天然の生け簀 富山湾鮨

天然の生け簀 富山湾鮨

MENU
ホーム > お知らせ > 2014年12月

お知らせ

優しさと笑顔に包まれたお鮨屋さん 『桜寿し』さん

2014.12.29

IMG_7021.JPG

 後継者不足と言われる県内の鮨業界にあって、『桜寿し』は少し様子が違う。ご主人の源正信さん69歳と同じカウンターに立つのは、長男の正澄さん45歳と次男の正和さん42歳。「三男坊は俺もやろうかと言ったけど、さすがにやめてくれってね。だから会社員になったよ」と笑う正信さんである。この日の取材対応はそんなご主人と長男の正澄さんだ。

 とにもかくにも、ご主人の正信さんは終始笑顔を崩さない。そして嬉しそうにこう話す。「お客さんがねぇ、ここに来るとホッとするって言ってくれるんだよ」とこれまた満面の笑み。毎日、ニコニコしていないとこの表情は生まれないだろうと確信する。

IMG_7015.JPG

 正信さんは鮨職人を志し、中卒で上京。江戸川区南小岩にある『桜寿し』で住み込み修業を始めた。ここで江戸前の技法を叩き込まれ、富山に持ち帰ることになる。成人を迎え独立の準備を始めると、21歳の暮れには地元高岡で開業を果たした。

 「軒下の10人ほどが入れる小さなお店で始めた」というが、何せまだ若過ぎる。この厳しい鮨職人の世界に身を置き、世間を知る年配客らをどうもてなしていたのか気になって聞いてみた。すると・・。

 「わし、人間が素直やったのか、自分が一人前やと思わんから。みんなに教えてもらってね」と、また顔をクシャクシャにする。若過ぎる鮨職人が物珍しかったのか、客にはレストランのシェフや魚屋の主人などが顔を出し、カウンターに入っては握り方や魚の扱い方を教えてくれたという。「そんなおもしいが駄目やわいと言われ、オラわからん!ってね。それから、こういうもんちゃこうすんがやぜって言われ、はぁ~てね。お客さんに育ててもらったちゃ」と笑顔で振り返る。

 今は50人も入れるお店に2人の息子が職人として働く。創業47年の歴史がキラキラと輝いている。

 IMG_7023.JPG

 長男の正澄さんも、同じ東京の『桜寿し』で修業を積んだ。もちろん、父の正信さんの繋がりからだ。そんな2人が握る鮨は、やはり"ひと手間ふた手間"違うらしい。正信さんが駆け出しの頃、お客さんに教えてもらったことは今に生きるが、やはり江戸前で身につけてきた技術は本物。富山湾で獲れる穴子やコハダなどに江戸前の下ごしらえが加わると、何とも美味い鮨が握れるという。これを目当てに市外からも多くのファンが足を運ぶ。また、土日は若いカップルも姿を見せる人気店なのだ。

 「銭なんか気にせず入ってくだはれ。1000円でって言われたらそのように握ってあげっから」と正信さんは言う。しかし、カウンターの上に張り出されるメニューの値段にちょっとひいてしまう。"トロづくし5400円"が目に入りたずねると、心理的な誘導を狙ったとのこと。しかし・・。「横に書いた"ちらし寿し 上 2700円"を食べてもらいたくて作ったメニューで、本当は食べて欲しくなかったのに、これが予想もせんかった。ボンボン出るがやぜ」と大笑い。でも若いお客さんには「あんたこんな高いが食べんでいいがやぜ。安いがあんなか」と制止をかけると言う。

 そんな話をしながら盛り上がる中でも時折、正信さんがこのフレーズを響かせる。「何せお客さんに、ここに来るとらぁ~くになってねぇって言われるが。うち帰ってきたような気がしてホッとするってね。ワシ、なんもそんな雰囲気、意識して出してちゃおらんがに」と、この時ばかりはあえて真剣な表情をみせる。そんな横で富山湾鮨を握ってくれる正澄さんが、正信さんにツッコミを入れる際にみせるやさしいボディタッチがこの上なく微笑ましい。何ともポカポカと心が温まるお鮨屋さんだ。

 IMG_7010.JPG

きのう、ようやく「ひみ寒ぶり宣言」!

2014.12.26

 きのう(25日)氷見漁港には200本を越えるブリが水揚げされ、ようやく「ひみ寒ぶり」漁の開始が宣言された。しかし、ただその日にたくさん獲れたからというわけではない。この宣言には幾つかの条件があり、重さ、脂の乗り、安定供給の見通しなど総合的な判断が必要とされている。2011年の制度導入後、毎年11月中の宣言が続いていただけに、多くの関係者がやきもきさせられた1か月となったが、今後の継続的な豊漁を私たちも陰ながらぜひ願わせてもらいたいです!

素材の良さを最大限に生かす食べ方 『すし屋の城光』さん

2014.12.25

 取材中に2人の男性客がカウンターに座った。「おまかせでお願いします」との言葉を受け、『すし屋の城光』のご主人•城光守さん(44)がさっそくお鮨を握っていく。まだ外観写真を撮影しただけだったので、この時点で私はどんなお鮨が出てくるのか、何も知らなかった。

 寿司下駄の上にちょこんと載せられるお鮨。城光さんが「そのままどうぞっ」と言う。男性客2人は、"わかってますよ大将"と言わんばかりに顔をほころばせて、お鮨を口に運んだ。私はその様子を横目でシラ〜と伺っている。次に握られたお鮨も「そのままどうぞぅ」と、先ほどとは少し異なる抑揚で城光さんが口ずさむ。まだ取材が出来ていないので、なぜそのままでいいのかが気になる。

 IMG_7235.JPG

 見て見ぬふりをしている私に、いつのまにか「富山湾鮨」が用意されていた。ご主人が、「素材の良さを引き出す味付けになっとるから、そのまま食べてみられ」と言う。ネタと味付けの説明を求めるとザッと一通り教えてくれたが、まだピンとこない私は「もうちょっと詳しく聞いていいですか?」と尋ねると、「いいから食べて感想書いてみられ」と押し切られてしまった。ならば、いただきます。

 IMG_7229.JPG

 これはこれは、何ともはや••。今度は夢中でお鮨をほおばる私を、2人の男性客はどう見ていたのだろうか、なんて考える余裕もなく完食。

 「醤油以外でもこういった食べ方ありますよってことやちゃ」とご主人。ヤリイカには、塩と酢橘。バイ貝には塩胡椒。ヒラマサには泡醤油。アジにはポン酢。そのほかのお鮨には煮切りが塗られていた。それぞれの魚が最高のパフォーマンスを発揮する味付けを探し当て、たどり着いた形である。「これ以上は企業秘密」と煙に巻かれた私は、まだ口の中に残る幸福な余韻に、ただただ浸るしかなかった。そして、まだ水揚げが不調な寒ブリのことだって、しばし忘れていた‥。

豊富な経験に裏打ちされた味と余裕 『かたかご』さん

2014.12.22

 高岡市野村にあるお鮨屋さん『かたかご』。最大50名が入れるお店は団体ツアーに組み込まれることも多く、関東、関西、東海と各方面から観光客が訪れている。そこで提供するのは、もちろん"富山湾鮨"。厳選素材を使用した自慢の握りは、県外客から高い評価を得ている。

IMG_70000.JPG

 今年創業30年を迎えた『かたかご』のご主人は、長森幹夫さん66歳。独立したのは36歳と遅かった。高校卒業後、高岡銅器のメーカーに就職して営業経験を積んでいたが、その時に通っていた鮨屋の板前さんとの出会いに運命を導かれることになる。門を叩いたのが、現在も新湊にその名を残す『寿司竹』だ。長森さんが通っていた鮨屋というのが、当時、高岡駅の地下にあった『寿司竹』の支店である。

IMG_7005.JPG

 修業時代は本店と支店を行き来しながら、目まぐるしい毎日を過ごす。「当時はすごく忙しくて、握らせてもらえるのも早かった。ただお昼も食べられないくらいでね。腹へらないようにさらしをしっかり巻いて、ずっと握っていたね」と懐かしむ。その後は独立に向けて他店でも修業を重ね、とうとう念願の開業を果たしたのだ。といっても最初はホームセンターの一角に店を構える形から。カウンターもない喫茶店のような店内に買い物客が来店するため、鮨以外にも「ざるそば」や「カレーライス」など幅広いメニューで対応していたという。その後、改装してカウンターを設け、ようやく店内は鮨屋のスタイルに。そして独立から10年。ようやく今の場所に店を構えることが出来た。長森さんが46歳のときである。

IMG_6990.JPG

 常連客に、大阪に本社を持つ出張所の社員がいたという。ある時、本社の社長を連れて食べにきてくれたときのこと。「こんな美味い鮨。なんで早く言わないんだ!」と常連客が社長に叱られていたことを、長森さんは思い出して笑う。このエピソードだけで、鮨の説明はいらないだろう。

長森さんは高岡の市場に直接足を運び、その日の素材を選び抜いてきた。現在は息子さんが後継ぎとして仕入れに出向いているという。よく聞かれる「オススメは?」との問いに、長森さんはいつでも「全部」と答える。一切妥協を許さない品定めは、後の二代目ともに健在なのだ。

そんな『かたかご』だが、メニューには昔の名残りというか、今も「ヒレカツ定食」や「エビフライ定食」など、鮨屋とは思えないものも掲載されている。「おまかせランチ」に魚料理が入っていない日だってあるという。テーブルにはなるほど、ソースも。

「肩肘張りたくないから」と笑う長森さんの言葉には、様々な経験を重ねた余裕が漂っている。

話し上手なご主人+貴重な戦力 『一平寿し本店』さん

2014.12.19

 総合レストランの『一平本店』と聞けば、昔の富山市を知る人は懐かしい思い出が蘇ってくるのだろう。古く、総曲輪の市街地で食事をとるには『富山大和』と『一平本店』しかなかった頃もあるという。7080代のお年寄りは当時、よく見合いにも利用したらしい。

後に県内各地で"鮨屋"としての暖簾分けが進み、誕生した一つが『一平東店』。二代目、水野秀樹さん(55)の父が開業した店舗である。今から60年ほど前、中央通りのわき道に入った長屋に店を構えていた。時が流れ、『一平東店』が現在の場所に移転した後、閉店した"本店"の名を受け継ぐことになったのが『一平寿し本店』である。

IMG_6987.JPG 

 ということで、『一平寿し本店』の二代目というのが、先にも出てきた水野秀樹さんであり、この歴史を教えてくれた当のご主人である。「家業で兄が継ぐはずだったが、兄は大学行ってサラリーマンになってしまって」と笑う。必然的に後継者の道が拓かれてしまった水野さんにとっての思い出話は、ある半年間に集約されていた。

 「高校卒業して、京都へ修業に行くことになっていたんだけど、半年遅らせてもらったんですよ。車の免許とることを理由にね」と言う。「免許がおりたその日に、警察署に免許を受け取りにいって、そのまま富山駅に向かってね」と続ける。まず向かった先が、名古屋と東京の大学に進んだそれぞれ友人のもと。ひとしきり遊んで、そのまま一人旅に出掛けたというのだ。何の当てもないまま福島、岩手、秋田へ。各地のユースホステルで住み込みのバイトを交渉してその土地土地に滞在し、残り少ない自由な時間を謳歌したと振り返る。最近になって当時、旅先から実家に宛てた手紙を母親が見つけて盛り上がったらしい。「どこまで行ってんだ、あの子は」との思いが蘇ったのだろう。

 「あれから37年間この仕事やってきて、今も日々追われているからまだ振り返る気にならないねぇ。本当に進行形なんで」と、走り続けてきた鮨職人としての回想はまだだ。

 そんな息子を横目に、お客さんと毎日楽しくおしゃべりしているのが、かわいい子に旅をさせた母親だ。水野さんは言う。「78歳の母は語り部として貴重な戦力でね。若い頃、東京で働いていたこともあって、当時、マッカーサーの見送りも見ている。東京タワーがまだ出来ないうちに富山に戻ってきているんだけど、まさに"ALWAYS三丁目の夕日"の時代を知っているんだよ」と目を細める。

 IMG_6984.JPG

 それにしても話し上手な水野さんだが、それを母親譲りと片付けきれない現状がある。「ありゃかあちゃん、元気やったかいと入って来る客もいて、俺じゃないがかいってね。話をすりゃ、次これ言うなってわかっけど、何も言えん。おかんの独壇場で、こっちは合いの手やちゃ。まぁそれが家族でやっとる強みやちゃ」と豪快に笑う。

 現役続行中なのは、水野さんだけではなかったのだ。そんな"名物お母さん"がもうすぐお店にやってこられるところで、この日のスケジュールが許さず、残念ながらお会い出来ず。おいしいお鮨はもちろん、楽しいお話が聞けるのも鮨屋ならではの醍醐味。

昔を懐かしみたい方にも、オススメの『一平寿し本店』さんでした。

たくさんの笑顔のために 『栄寿し』さん

2014.12.15

IMG_6941.JPG

 能越自動車道・高岡ICのすぐそばにある『栄寿し』。その立地条件に見合う広々とした駐車場と大きな建物は、およそ鮨屋とは思えないスケールだ。店先の木々に雪囲いが施される最中、おじゃました店内は、カウンター部屋、個室4部屋、中部屋3つを広げて大部屋1つといった構造になっていた。職人は5人、パートとアルバイトは9人と、その規模はとてつもない。さらに創業44年という歴史を持つ『栄寿し』だが、実はご主人がまだお若い。二代目の杉守明さん40歳である。物腰がとても柔らかく、笑顔で表情を崩したまま話をする様子が、こちらの緊張をほぐしてくれる。

IMG_6966.JPG

 先代は義理の父。鮨職人としての独立を志し、各地で修業に励む中、成就した恋。そのお相手が『栄寿し』の娘さんだった。今は先代の背中を見ながら、二代目として大きな名店を背負っているのだ。

 今から3年前の夏、代替わりして間もない頃に、『栄寿し』プレゼンツのイベントを開催した。小矢部川の花火大会にあわせた企画である。「常連さんの提案だった」と言うが、杉守さんを慕う多くの客が次々と協力を買って出て、思いもよらないビッグイベントとなった。「トラックや照明とか、みんな協力してくれてね」と表情を崩す。広い駐車場を目一杯使って花火の見物席を作り、一角ではアユを焼いたり焼きそばを焼いたり。「店内はバイキング形式にして、あらゆる料理を作ってね。焼いてくれる人やら、ビール入れてくれる人やら、楽しかった」と振り返る。結局、お手伝いも入れて150人ほどのお客さんが集まってくれたという。

 IMG_6947.JPG

 そんな感謝の気持ちに浸りながら杉守さんは「何でもやってみたい」と話す。確かに観光客は大勢来てくれる。責任を持って富山の鮨を提供していきたい。でも、見つめる先は一人ひとりのお客さんであり、一人ひとりの笑顔だ。「気軽に来ていただける店作りをしたい。鮨だけじゃなく、色んなものを食べてもらいたい。小さい子はお鮨の他にも茶碗蒸しだったり天ぷらだったり、何でも食べたいはず。そんなお客さんのニーズに応えたい」と意気込む。またつい先日、『栄寿し』として"ライン"を始めたという。「ブリがあがったよとか、食べごろですよって情報を発信していきたい」と、ならではの発想をのぞかせる。

 IMG_6957.JPG

 様々な思いをめぐらす杉守さんだが、やはり握ってくれた富山湾鮨は格別だった。そんな杉守さんに鮨への気持ちを問うと、こう返ってきた。「鮨を作るのはいつものことかもしれんけど、鮨を作っていることが楽しいと思う」。

 鮨への愛情は当たり前。そこからのさらなる向上心で、多くの人の笑顔をつかみにいく。

力強さと優しさを備える町の鮨職人 『ひょうたん』さん

2014.12.12

IMG_6918.JPG

 

    『ひょうたん』は、こじんまりとした朝日町のお鮨屋さん。中におじゃますると、その名の通り、店内のあちこちにひょうたんが飾られている。「常連さんからもらったものもあるんよ」と教えてくれるのは、ご主人の梅津拓光さん68歳。凜としたその姿を前に、こちらの背筋もピッと伸びた気がした。といっても、優しさに包まれているような感覚は何とも説明しづらいのだが。

IMG_6932.JPG


創業は昭和49年。実家を店舗に改装して店を構えたという。「小学生でも読める、親しみのある屋号にしたかった」と当時を振り返る梅津さん。その思いは叶い、家族連れはもちろん、地元客に愛される町のお鮨屋さんとして、40年の歴史を刻んできた。

IMG_6928.JPG


『三長会』という、鮨専門の調理士会があるのをご存知だろうか。都心の一流店など錚々たる顔ぶれが集う全国組織(海外にも加盟店あり)であるが、実はその中に『ひょうたん』が名を連ねている。これを言うと、町のお鮨屋さんが急に遠い存在に思えてくるが、ここからは事実を淡々と紹介していきたい。

18歳で上京した梅津さんは、それから10年の間に普通では考えられない数々の経験を積んできた。そのうち、『銀座久兵衛』では2年、国賓を迎え入れる『迎賓館』でも鮨を握ったことがある。「出会いがあったから」だと説明するが、その陰には、己に向けた厳しい鍛練が潜んでいたに違いない。「取材だから答えたけど、私は来ていただくお客さんに対してこんなことは言わないよ」とチャーミングな笑顔を見せてくれた。この笑顔で、一気に町のお鮨屋さんに引き戻される。

 しかし、驚きはまだ終わらなかった。こちらも興味津々であれこれ聞いてしまうと、やはり・・。俳優の三國連太郎や田村高廣、また政治家の片山さつきなどが来店した形跡を見つけてしまった。これも探らなければ出てこなかった事実ではあるのだが。

撮影用に「何でも言ってみられ、そのようにしてあげるから」との言葉をいただき、リクエストしたのが、こちらで人気の"特上ちらし寿司"。「いいよっ」と二つ返事で板場に向かい手を動かしておられるところで知ってしまったのだが、3500円の代物である。マグロにトロ、数の子に穴子、ヒラメや甘エビなど、ザッと数えて16種類はある具材。それはまるで宝箱を目の前にした感覚だった。

IMG_6936.JPG

  

    急に私事を語って恐縮だが、この日はこのまま直帰の予定。梅津さんの「食べていかれね」を聞いた瞬間、何とかこの宝箱を自宅に持ち帰って、家族に食べさせてあげたいと考えた。図々しいのは承知で申し出ると、「おっその気持ちに感動した」と、さっそくお持ち帰りが可能な器へと丁寧に移し替えてくれた。

 「私の鮨を食べてくれる人がいるおかげで、今がある。ありがたいんよ。お客さんには色んなことを教えてもらった。語り尽くせないくらい」と梅津さんは言う。また、68歳と高齢だが、シャンとした姿で強い意志をにじませる。「倒れんうちは生涯現役。おいしかったと言ってもらえる、その顔を見るのが嬉しくて。やっぱりこれで良かった」。

東京の第一線で活躍した経歴を持ちながら、決して驕ることなく、謙虚な姿勢を崩さず、何より地元を大切に思うその姿は、鮨を愛する私たち富山県民の誇りである。

 自宅に戻って、妻と2人の子どもと思い思いに取り分けていただいた"特上ちらし寿司"は、その美味しさに加えて、梅津さんの力強さと優しさが詰まった最高の一品でした。

富山湾鮨提供店 年末年始休業日のお知らせ

2014.12.12

富山湾鮨提供店の年末年始休業日は下記pdfファイルよりご確認いただけます。


※なお、年末年始は魚の仕入れ状況により、富山湾鮨を提供できない場合もございますので、あらかじめご了承下さい。


鮨処、魚津の老舗 『寿司栄』さん

2014.12.11

鮨処、魚津で最も古い鮨屋が、ここ『寿司栄』である。創業44年で、ご主人は岡本茂雄さん69歳だ。富山市の老舗、『寿司栄』から暖簾分けして26歳の時、独立を果たした。

岡本さんは元々、サケマス漁に出る遠洋漁業の漁師だったが、ある日、新聞広告で『寿司栄』の求人を目にしたのが大きな転機となった。さっそく門を叩き、歩み始めた職人の道。5年半の修業を経て、魚の街、地元・魚津で勝負をかけたのだ。

 IMG_6911.JPG

 対峙するのは極上の魚ばかり。さらに魚を知り尽くした地元住民が相手だ。取材中、苦労話を聞くことはなかったが、その洗練され尽くした立ち居振る舞いは、魚津で生きる鮨職人の気高さを感じさせてくれる。ただ、魚津ばかりを意識してきたわけではない。遠く離れた海を知るからこそ、提供できるサービスもある。漁師時代の繋がりを生かして気仙沼からサンマを仕入れ、当時、富山では食べることの出来なかったサンマの握りや刺身も売りにしていたのである。「この根室産のウニ。一番おいしいとされているやつだよ」と、いただいたウニの軍艦は、たまらなく美味しかった。

 IMG_6907.JPG

(写真はランチでいただける握り・松1800円、ほかにも海鮮丼850円も大人気だ)


IMG_6914.JPG

(魚津で近年ブランド化された寒ハギは、フグをも凌ぐ美味しさとも言われる逸品)

  魚津漁港で水揚げされる魚の売買には、必ず仲卸業者が入ることになっている。なので、魚屋と鮨屋の間には、強い信頼関係が築き上げられている。いい魚が水揚げされた日は、魚津を代表する競り人が岡本さんに電話をかけてくる。「おやっさん、買ったがけ?」。岡本さんは「おぉ買ったわい」と返す。その夜、カウンターには競り人の姿が。おいしく鮨をいただいているというわけだ。

 IMG_6893.JPG

 店内には金色に輝くグローブが飾られている。他にも何やら記念のボールや賞状があちらこちらに見られる。富山県内で草野球をしている人は、必ず耳にしたことがある『寿司栄クラブ』というチーム。創設者は何を隠そう、岡本さんだ。お客さんや知人を中心に、魚津や黒部、それに入善などに住むメンバーで結成されたチームは42年の歴史を刻み、幾度も県大会に出場してきた強豪だ。実はメンバーの多くが野球の素人で、朝の練習を重ねてのし上がってきたという。金のグローブは、お店の移転時に仲間から贈られた大切なものである。

 IMG_6900.JPG

 魚津で最も古い鮨屋の職人、岡本さんは、多くの人たちに愛され、支えられ、慕われる"おやっさん"だ。

本場に息づくカウンターの鮨屋 『福寿し』さん

2014.12.10

IMG_6891.JPG 

 昭和に栄えた滑川市の『銀座通り』。昔は肉屋に魚屋、映画館にパチンコ店などが建ち並ぶ、市内を代表する繁華街だったという。県道1号のこの道は、富山方面への幹線道路としてバスも走っていた。そう教えてくれたのが、この旧道沿いに店を構える『福寿し』のご主人、青木隆さん53歳である。

 ホタルイカという強力なブランドを持つ滑川であっても、カウンターの鮨屋は現在、たったの3軒しかない。ここ10年くらいで半分ほどに減ってしまったのだそうだ。

 IMG_6862.JPG

 先代が創業した『福寿し』は半世紀が経ち、今は二代目。代替わりしておよそ30年。青木さんは大阪にある調理士の専門学校で学び、関西の地で修業を積んだ。「地元、滑川で仕事がしたい。そしたらこの仕事が一番」だったと、帰郷して父親の後を継いだ。子どもの頃は、鮨屋に育ちながら魚の食べず嫌いがひどく、玉子ばかり食べていたと明かす。さらに鮨飯も好きではなかったらしい。「そのおかげで修業中は大変だった。でも食べたらおいしくてねぇ」と当時を懐かしむ。今では毎日、自分が握る鮨をまかないとして食べ、外食してもメニューに鮨があれば注文する。「もう鮨飯じゃないと物足りん」と笑う一方、「どんな鮨なのか研究のために」とも話す。

 IMG_6872.JPG

 ここ何十年で鮨のチェーン店が至る所に進出し、どこでも気軽に鮨が食べられる時代になった。本来、鮨は気軽にいただくものではあったが、いつしかカウンターは敷居が高いと印象付けられ、特に若者にとっては馴染みの薄い場所になってしまったようだ。

 『福寿し』の常連さんは、やはり5060代の男性客が多い。ただ、その人たちは知っている。気軽に鮨を食べられることや、滑川で水揚げされるエビやカニ、バイなどは非常に美味で、この業界でも評価が高いことを。

 私たちもぜひチャレンジしてみたい。今なお本場に息づくカウンターの鮨屋で、最高の地物をいただく。写真で紹介するのは、1000円でいただけるランチの握りだ。決して高くはない。小鉢で提供される白い昆布〆も、ここでしか食べられない逸品である。小さい頃、食べず嫌いだった青木さんが、職人である今も夢中になる本物に、必ず出会えるはずだ。

 IMG_6879.JPG

手間ひまかけた丁寧な仕込み 『都寿し』さん

2014.12.09

IMG_6809.JPG 

 JR砺波駅前の『あいれふ駅前タウン』は、昭和の匂いがプンプンする路地裏横丁だ。そこに長き伝統を受け継ぐ鮨屋がある。昭和8年に東京・青山で開業した『都寿し』だ。今の三代目ご主人、石黒直喜さん40歳の祖父が初代である。戦争の時代をくぐり抜け、昭和44年に石黒さんの父が今の場所に二代目として『都寿し』を開店させた。三代目の石黒さんは高校を卒業後、金沢で修業を積み、21歳で父親と同じ板場に立ったのである。

 鮨職人を志した理由を聞くと「餅は餅屋だから」と笑う。ルーツは、仕込みに多くの手を加える"江戸前寿司"というだけあって、石黒さんは富山湾の素材と向き合う中でも、様々な手間ひまを惜しまない。

IMG_68177.JPG 

IMG_6847.JPG

 

 そんな『都寿し』の仕込みの様子を今回、一つだけ見せてもらえることになった。ケースから取り出されたのは「アナゴ」。手際よく切り開いた後に行うのは、冷水で洗い流す作業。これは冬だろうが夏だろうが、大変なのだ。どんな鮨屋も、魚屋も、まずもってこの作業が延々と続くことを、今ようやく思い知らされる。石黒さんの冷えた両手がみるみる赤くなっていく。「手の感覚がなくなって、背ビレが刺さっててもわからんときだってあるよ」と教えてくれた。

IMG_6836.JPG 

 次にアナゴにお湯をかけると身がギュッと縮む。そしてここから『都寿し』ならではのひと手間が加わる。身の中にまだ潜む骨を裁断する"骨切り"という作業だ。これをしている鮨屋は珍しいらしい。アナゴの身に細かく包丁を入れていき、小さな骨を砕いていく。そもそも、あっても気にならないほどの細かな骨だそうだが、この"骨切り"を施すと、食べたときの柔らかさが一層増すという。そして"煮アナゴ"になるまでには、この後もまだまだ仕込み作業は続いていくのだ。

 IMG_68399.JPG

 石黒さんが言う。「お客さんに喜んでもらうために、一日一日の仕事を無駄に出来ない。一つとして手を抜くものはない」。伝統の看板を背負う三代目は、そう言って言葉に力をこめた。

最高級の笑顔と握り 『勝弘寿し』さん

2014.12.05

 目尻にたっぷり皺を寄せ、これ以上ない笑顔で迎えてくれた『勝弘寿し』のご主人、織田正弘さん(67)。もうそれだけでこの店に来て良かったと、心がポッと温かくなるような感覚に包まれる。

 IMG_6788.JPG

昭和47年に創業した『勝弘寿し』。今は宴会にも対応可能な3階建てのお店だが、「小さい店から始まってね」と、当時を懐かしむ。織田さんは高校を卒業してまもなく、富山大和の前にあった、親戚の『勝寿司』で手伝いを始めた。「肌に合った」という鮨の世界に徐々にのめり込み、そのまま修業の身となった末に25歳で独立を果たした。富山新港の近くにある実家のすぐそばに店を構え、地元の人たちに愛される鮨店を目指して必死な毎日を送ってきた。それは今も変わらない。現在の店も、もちろん実家のすぐそばだ。

 IMG_6782.JPG 

 開業時は近くで火力発電所の建設が進められていて、住み込みで働いていた関係者もたくさんお店に足を運んでくれたという。その中で、一人の若い男性客の話になり、やっぱりポッと心が温かくなった。

 「よく顔を見せてくれてね。次第にまかないを出してあげるようになって」

 「カレー食べてかれってね。親子みたいになっていってねぇ」

 いつの間にか織田さんの奥さんも加わり、話が盛り上がっていく。

 「その子が、いよいよこの現場終わって帰ることになりましたっていう日が来て。何も返せませんでしたけど、東京に来られた時は電話下さいって言って帰っていったが(富山弁)」。

 ディズニーランドが誕生した次の年、織田さん一家は子どもを連れて、慣れない東京に足を運ぶことになった。

 「そして電話したが、彼に。ディズニーランド行きたいがやけど何もわからんから、泊まるとこ見つけてくれんかってね。今みたいにパソコンとかもないしね、ああいうもんとか・・」と織田さんが笑うと、奥さんもすかさず「スマホみたいなもんもないし、今みたいに簡単に調べられなかったのよね。昔は大変だったが」と付け加える。

 そしていよいよ東京。待ち合わせの場所で彼との再会を果たし、さっそく自宅に招かれたという。彼の母親からは「うちの息子を長い間、ありがとうございました」と、ご馳走で迎えられ、ディズニーランドまでの行程では、仕事に出なくてはならない彼のピンチヒッターに「弟さんが連れていってくれてねぇ」と、家族総出でもてなしを受けたことを嬉しそうに語ってくれた。「仕事から戻った彼も、もちろん予約をとってくれた宿まで送ってくれて、2日目の朝も誘導してくれたがです」と丁寧に話してくれるのも、織田さんの優しい性格の表れだ。織田さんのまだまだ細かい描写が続いたが、奥さんに「あんたそんなところまでしゃべらんでいっちゃ」とたしなめられているところが、また夫婦の仲睦まじさを感じさせてくれる。

 それならこちらも負けじと、もう一つのエピソードを紹介しよう。もう30年来、年に数回、高山から通い続けてくれる夫婦がいるという。ひょっこり顔を出してくれたのが最初の出会い。その後は、電話が鳴ると「朝食べんと行くから頼むね」と言って、子どもも連れて顔を出してくれたという。ある時、その夫婦から「会社の設立パーティーをするので、従業員に食べさせて欲しい」との依頼を受けて、常連客からバスを借りてネタやシャリを積んで高山まで出張したという。「最初、そんな大きな会社の社長夫婦とは知らなかったからビックリしたちゃ」と織田さん。富山ならではの鮨をたくさん握ってあげたと言い、みんなに喜んでもらえたことが嬉しかったと顔をほころばせる。

 

 地元の常連客はもちろん、このように県内外のファンも多い『勝弘寿司』。今回も、「富山湾鮨」にこだわらず、普段のランチでいただける握りを撮影させてもらいました。やっぱり私たち県民だって、「通常どれくらいで食べられるのかなぁ~」といった具合に、知りたいところでもあるから。写真にあるのはランチで最高級の2160円のセット。(ほかに1300円、1650円のセットもあります)

IMG_6794.JPG 

IMG_6804.JPG 

この季節は北海道の「ウニ」や「イクラ」もいただけます。そして厳選された富山湾の握りがズラリ。織田さんご夫妻の優しさに触れて通いたくなるのは紹介した通りですが、やはり鮨も美味しかった・・。シャリが不思議な食感で、大袈裟に言うと桜餅のようにモチッとしたまとまりを感じながらも、きめ細かい米の粒をザラリと舌の上で実感させてくれる何とも言えない繊細なもの。ぜひ一度、味わっていただきたいお鮨であります。

 

 67歳となる織田さんだが、こう話す。「この仕事のおかげで縁が生まれ、色んな出会いに恵まれた。これからはやっぱり恩返しの気持ちでやっていきたい」。鮨職人の高齢化が進み、後継者不足に悩まされる個人店も少なくない。このままでは衰退も避けられない状況だと心配する織田さんだからこそ、言葉に力を込める。「細巻き3本持ってきてって言われても、利益関係なく、してあげたい。健康なら1日でも長く、仕事していきたい」。

野球とサッカーと ランチのお鮨と 『城寿司』さん

2014.12.04

 富山市の中心市街地から少し外れた場所に店を構える『城寿司』さん。迎えてくれたのはご主人の塚原茂樹さん(63)。挨拶をさせていただくやいなや、店内を見渡して気になったことをとっさにたずねずにはいられなかった。目に飛び込んできたのは、ディスプレイの中に飾られた黄金のバットと阪神タイガースのユニホームである。「うちの常連さんが長嶋さんや村山さんと懇意にしておられて、ぜひお店に飾って」ということになったらしい。長嶋茂雄が村山実からサヨナラホームランを放った、あの天覧試合を記憶している人も多いだろう。そんな因縁のライバル2人のお宝に、突然出会えるなんて・・。

 IMG_6752.JPG

 黄金のバットの説明書きには、「長嶋選手が現役最後の試合で愛用したバットの中からゴールド・メッキして、長嶋選手より贈られた貴重なバットです」と書かれてある。阪神タイガースのユニホームは、村山実が監督時代に着用していた、永久欠番「11」がまぶしい縦じまである。当然だが、これを見て驚きを隠せないお客さんは非常に多いという。

 野球の話で盛り上がる準備が出来た私だったが、塚原さんはこう返す。「もちろん私も野球は好きだが、語らせて長くなるのはサッカーのほうだよ」と言って笑う。

 

実は塚原さん、富山県内の高校を卒業後、すぐに鮨職人の道を歩み始めたわけではない。当時、神奈川県のサッカーの社会人リーグに属していた平塚市の企業に就職し、選手として現役を続けていたのだ。しかも神奈川県民体育大会が開催される際には平塚市の選抜選手にも選ばれ、代表チームの二代目主将も務めていた。現に、平塚市サッカー協会から贈られた功労賞が、輝かしい経歴を裏付ける。そこでいよいよ気になってくるのは、なぜ鮨職人を志したのかというところだ。

 IMG_6760.JPG 

「平塚にいたときに通っていた鮨屋の親方が、すごく人となり良くてね」。親方の人間性に惚れて、徐々に影響されていったという。「鮨屋はお鮨ともう一つ、会話を楽しむところでもある。博識がないとやっていけない」。決意を固めた塚原さんは、6年間いた平塚を離れて富山に戻り、修業を始めた。そして25歳の若さで独立を果たしたのだ。サッカーへの未練はなかったのかとたずねると、本当は富山に戻っても県内のサッカー界に尽くしたい思いはあったのだという。しかし、鮨屋をやっている以上、サッカーに時間を割けないのが現実だった。そんな無念を晴らすかのように、カウンターで繰り出されるサッカー話は"通"にはたまらないものばかり。「平塚にいた頃は、国内で開かれた海外クラブチームの試合の95パーセントは観に行っていたよ。ペレやベッケンバウアーのプレーも間近で観たよ!」と胸を張る。そして「半券とっておけばよかったなぁ」と悔しがる。

 IMG_6773.JPG

 そろそろお鮨の話にいかねばと、今回撮影用にお願いしたのは、普段のランチで提供されている"おまかせ"の握り。「富山湾鮨」ばかりではなく、たまにはこういった通常のランチも紹介しなくては、との思い。握り9貫と細巻に、この日はハマグリの味噌汁がつきました。お昼はこれで1500円なのです。「富山湾鮨」だってもちろん良いけど、私たち県民はフラッとランチタイムにおじゃまして、リーズナブルで美味しいお鮨をいただいて、サッカーの話で盛り上がる。こんな楽しみ方も提供していきたいきょうこの頃です。

 

富山湾鮨切手 台紙付きの"特別版"を通販にて販売!

2014.12.02

販売開始以来、大変好評をいただいている「富山湾鮨切手」ですが、このたび、オリジナル台紙のついた"特別版"が登場しました!購入できるのは通販のみ。レアアイテムがさらにレアになるとっておきの代物を、ぜひ手に入れて下さい!

IMG_2847.JPG 

「天然の生け簀 富山湾鮨」のうまさを解説するオリジナル台紙


20140904.jpg

オリジナルフレーム切手(82円切手×10)


《販売価格:2,000(記念切手代、オリジナル台紙代、送料含む)

  お申込み、お問合せは下記までお願い致します

    連絡先「富山湾鮨ファン倶楽部」TEL076-454-5700FAX076454-5700

    問合せ窓口対応時間 10:0016:00(平日のみ)

    決済方法 電信振替又は電信振込

(口座名)富山湾鮨ファン倶楽部(トヤマワンズシファンクラブ)

(振込先)ゆうちょ銀行 記号13230 番号13192131